岡山・津山特集
岡山ゆかりの有名人・著名人

た行


田嶋  陽子(たじま  ようこ)

英文学者。浅口郡鴨方町(現・浅口市)出身。
静岡県沼津市育ち。

メディアへの初出は、NHK教育テレビの英会話番組の司会であった。
1990年「笑っていいとも!」(フジテレビ)の出演とレギュラー化を
きっかけに、知名度を上げる。
その後、「ビートたけしのTVタックル」(テレビ朝日)や「たかじんの
そこまで言って委員会」(よみうりテレビ)などの討論番組へ
フェミニスト論者として、数多く出演する。
94年には「見ーてーるーだーけー」のフレーズが印象的な
ニッセンのCMにも出演した。

な行


中西  圭三(なかにし  けいぞう)

シンガーソングライター。児島郡灘崎町(現・岡山市)出身。
代表作は
「Woman」
「Choo Choo TRAIN」
他多数。
郷ひろみやEXILE、安室奈美恵など、多くのアーティストに
楽曲を提供している。

香川の銘菓「かまど」のCM曲を手がけたことは有名。


中原  杏(なかはら  あん)

漫画家。岡山県出身。
小学館発行の少女漫画雑誌「ちゃおデラックス」より
2000年「スイートレッスン」でデビュー。
現在も「ちゃお」で執筆中。

代表作は
「きらりん☆レボリューション」(小学館)
など。

は行


人見  絹枝((ひとみ  きぬえ)

陸上選手。岡山市出身。

岡山高等女学校在学中にはテニス選手として活躍していたが
大正12年、岡山県女子体育大会で走り幅跳びの女子日本記録を出し
それをきっかけに陸上競技の世界に入る。
以後、やり投げや50m走で活躍し、三段跳びでは世界記録を
出すなどした。

大正15年、大阪毎日新聞社へ入社。
その4ヵ月後に第2回万国女子オリンピック大会へ
唯一の日本人として出場し、個人優勝を果たした。

昭和3年、初めて女子の陸上が採用された、アムステルダム
オリンピックに出場。
このとき、日本から出場した女子選手は、人見ただ一人だった。
人見は100m走に全てをかけ、予選を1着で通過するが、惜しくも
準決勝で敗退した。
その翌日の7月30日、未だ出場経験のない800m走への出場を決意。
その予選には32人が出場し、人見は、決勝進出が決まった9名中、8位の
成績で予選を通過した。
8月2日、人見は100m走で大きく体力を消耗したにもかかわらず
800m決勝で見事2位を勝ち取り、銀メダルをつかんだ。
日本人女性初のオリンピックメダリストの誕生であった。

優勝したドイツのリナ・ラトケとは、わずか0.98秒差のゴールだった。

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しかし、当時の日本人たちから人見は
「女が太ももを出して走るなどはしたない」
「人前で太ももをさらすなど日本女性にはあってはならない」
といった誹謗中傷を受けた。それに対し人見は、
「いくらでも罵れ!私はそれを甘んじて受ける しかし私の後から生まれてくる
 若い選手や日本女子競技会には 指一つ触れさせない」
と、女子陸上競技に関する記事で述べたという。

昭和5年の国際女子オリンピック大会には、人見をはじめ
6名の代表選手の出場が決まった。
ただし出場には1人3000円(現在の金額で約80万円)の費用が必要で
人見は選手として遠征する傍ら、選手達の大会出場のための費用を
工面したり、寄付金を募るなどして6選手の出場を実現させた。

しかし、大会で選手達は好記録を出したものの、前大会に比べ
成績が芳しくなかったため、日本人からの目は冷ややかなものであった。
これに選手達は大いに傷ついた。
更に人見は大会後も遠征が続き、心身共に大きな負担となった。
しかし彼女は会社を殆ど休むことなく出社し、寄付のお礼にも駆け回った。

昭和6年、肋膜炎で大阪の病院に入院。その後肺炎を併発し
3年前の800m決勝と同じ日の8月2日、
乾酪性肺炎により逝去した。

24歳だった。

プラハには、人見の功績をたたえ石碑がたてられた。
石碑には、以下のように刻まれている。

「人見絹枝 1930年8月2日 大阪にて死去
愛の心をもって世界を輝かせた女性に 感謝の念を捧ぐ
チェコスロバキア体育協会」

また後世に残した人見の業績は大きく、現在では一般的になっている
・選手に専属コーチを付ける
・年間を通したトレーニングをする
・クラウチングスタート時にスタート台を付ける
・高校野球入場時にプラカードを持って行進する
・競技に勝利したときは校歌を斉唱する
といった事を提唱し、実現させた。


参考:岡山市立福浜小学校(人見絹枝の出身校。)
    その時歴史が動いた

ま行


箕作  阮甫(みつくり  げんぽ)

江戸時代(寛政〜文久)に活躍した蘭学者。藩士。
津山市出身。

津山市西新町に生まれる。
父と二人の兄を亡くしたため、12歳で家督を継ぐ事となる。
津山藩の永田敬蔵、小島廣厚らに儒学を学び、のち
京都へ出、竹中文輔のもとで3年間医術を学ぶ。
その後津山へ戻り、本町で開業するが
1823年、藩主の供で江戸へ行き、蘭学習得のため
津山藩医・宇田川玄真の門に入る。

1831年、江戸詰のため、家族で江戸に移り住む。

1839年、蛮社の獄で自害した小関三英の後任として
天文方蕃書和解御用に任ぜられ、翻訳員となる。
1853年のペリー来航の際には翻訳官、米大統領国書の
翻訳を務めた。
その1ヵ月半後にはロシア使節プチャーチンが来航。
翌年、再び来航したプチャーチンとの交渉のため
川路聖謨、筒井政憲らに伴い交渉団の一員として
長崎へ赴き、活躍した。

その後、藩書調所(洋学の研究所。東京大学の前身。)の教授に任ぜられ
日本の大学教授第一号となる。

1863年、没。行年65歳。

阮甫による著書は、医学をはじめ西洋学・語学・地理学・兵学など多岐の
ジャンルに及ぶ。
また、日本初の医学雑誌「泰西名医彙講」を出版した。

参考:kotobankコトバンク
    津山工業高等専門学校


光吉  智加枝(みつよし  ちかえ)

苫田郡鏡野町出身。

昭和49年、岡山県立津山高等学校に入学。
自転車での通学途中、津山市二宮の交差点で
安全確認を怠ったダンプに轢かれ、夭折した。
昭和50年2月26日。15歳という若さだった。

事故の日の夕方、両親が、彼女の勉強机から
「自分を育ててくれた」という鉛筆や文具類、そして
彼女が小学校4年生から亡くなる前々日まで
綴っていた日記を発見した。

その日記には、こう記してあった。

 7月9日
あたし今 いいこと
思いついた 期末テストのべん
きょうしながら
あのねー この日記が
ね おわったらなー
やねうらにほうりこむん
そうして何十年もたってこの
家をこわすときがきて この日
記をだれか見つける。
そして よんで 「だめの子日
記」という本にする。
いい想像だーナ

(小学館「だめの子日記」より抜粋。改行原文ママ。)

これを読んだ両親は、彼女の遺志を継ぎ
「だめの子日記」
というタイトルで私家本として発刊。
それをあらため、昭和51年、小学館が
「だめの子日記」を出版した。

日記には日々の出来頃や、嬉しかったこと、悲しかったこと
特に、思い悩む心、葛藤、自分の人生に対する想いや
決意が率直に書かれており、その悩みながらも成長する
心を表した純粋な文章が、読む者の心を打った。

出版後、中学校道徳の副読本として採用され、また、
平成2年、国語の教科書(中学2年・三省堂)にも掲載された。

参考:「だめの子日記」 光吉智加枝 小学館(絶版)
    津山瓦版
    つーる・ど・おかやま


水戸岡  鋭治(みとおか  えいじ)

工業デザイナー。岡山市出身。
株式会社ドーンデザイン研究所代表取締役。

主に、バスや電車のデザインを手がけ、グッドデザイン賞やブルーリボン賞
などを数多く受賞している。

主な作品は
JR九州の特急「ソニック」、九州新幹線「つばめ」など多数。
岡山では路面電車「MOMO」、「たま電車」
両備フェリー「おりんぴあどりーむ」など。


MEGUMI(めぐみ)

女優。元グラビアアイドル。倉敷市出身。

当初は歌手を目指していたが、2001年グラビアデビュー。
その後、バラエティ番組やドラマなどに数多く出演。
地元メディアにおいても
岡山県庁、岡山県警のCMや
かの「ばちこい!」(瀬戸内海放送)にも出演していた。

参考:MEGUMI  OFFICIAL  SITE


森永  あい(もりなが  あい)

漫画家。岡山県出身。

同人作家であったが、1993年コメディーDX(角川書店)より
「11年目の女神」でプロデビュー。

代表作は「山田太郎ものがたり」(全15巻)。
1995年〜2000年に月刊Asukaで連載されていたが
2007年、TBSでのテレビドラマ化の余波を受けて連載が再開された。

その他の代表作は
「ユンカース・カム・ヒア」(木根尚登・作  角川書店)
「僕と彼女の×××(ペケ3つ)」(マッグガーデン)
など。

や行


八名  信夫(やな  のぶお)

俳優。岡山市出身。
3〜5歳頃まで、津山市で過ごす。

大学中退後、東映フライヤーズ(現・日本ハムファイターズ)の
投手として入団したが、試合中に負傷し、引退。
その後、球団の親会社である東映の専属俳優となった。

当初は役に恵まれず、収入も乏しかったため、自ら悪役を志願。
それが好転し、以後数多くの映画やドラマで悪役として
多く出演するようになり、悪役俳優のイメージが定着した。
今までで、もう1200回以上殺されたという。

1983年、悪役を演じる俳優たちで構成された「悪役商会」を結成した。

主な出演作は
網走番地外シリーズ(東映)、仁義なき戦いシリーズ(同)などの
任侠映画や、「大江戸捜査網」、「西部警察」などのドラマにも出演。
また、「ドラえもん のび太の宇宙小戦争」で声優(ギルモア将軍役)
も務めた。

キューサイ青汁のCMで有名な
「まずい!もう一杯!」
の台詞は、八名自身が実際に青汁を飲んだ際に
言ったらしく、それがそのままCMに採用された。

参考:Akuyaku Shokai Home Page
   おおさか報知(悪役俳優・八名信夫さん、高校時代はモテモテ球児…岡山市)


吉行  あぐり(よしゆき あぐり)

美容師。御津郡御津町(現・岡山市)出身。

18歳のとき、美容院界の先駆者である山野千枝子に弟子入りし
東京・丸ノ内美容院で3年間の修行を経る。
昭和4年、千代田区市ヶ谷に「山ノ手美容院」を開業・独立した。
技術の高さが評判となり、昭和6年には銀座に2号店、昭和11年に
岡山に3号店を出すまでになった。

当時の女性達にとって憧れの美容師で、雑誌などにも取り上げられるほか、
レポーターを務めたり、ラジオにも出演するなどの「モダンガール」であった。

しかしその後、夫の遺した多額の借金の返済、戦争による
店舗の強制解体、空襲による自宅消失など、様々な不幸が襲った。

昭和24年再婚。
苦労の末、昭和27年、東京丸の内に「吉行あぐり美容室」を開業させた。

しかし、昭和40年代から美容師達の価値観の変化や、若い弟子達との
コミュニケーションに悩み、昭和54年、72歳のときに美容室を閉店。
しばらくは日本中を旅するが、昭和56年、再び「吉行あぐり美容室」を開店。
顧客は常連だった40人に限り、あぐり一人で店を経営した。

平成17年閉店。

日本最高齢の美容師である。

1997年、NHK朝の連続テレビ「あぐり」のモデルとなった。

参考:YOUTUBE  知ってるつもり?!「吉行あぐり」

ら行


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