岡山・津山特集
渋染一揆
・岡山県岡山市
[ 概要 ]
1856年、岡山藩で起こった被差別部落住民による一揆。

 江戸後半の当時、天保の飢饉や三大地震、ペリー来航によって財政難に苦しむ
藩が全国的に増え、もちろん岡山藩もその例外ではありませんでした。
1856年1月上旬、時の藩主池田慶政が財政の立て直し政策の一つとして
藩内の者達に倹約を命じたのですが、その余波で、被差別部落民たちに対し
より厳しく差別的な御触れが出されたのです。
「倹約御触書」とよばれる御触れの「別段御触書」という部分がそれです。

そのお触れの内容は

・着物は、渋染め(柿色)の木綿着物以外の着用禁止。
・紋付着物の着用禁止。
・雨の日も、傘を差して外出してはいけない。
・遠方への外出時、下駄を履いてはいけない。

など、とても耐え難い屈辱的な内容でした。

 これに激怒した部落民たちは、このお触れを撤回させる嘆願書を提出しようと
53もの村同士で話し合いました。
しかし、一度出した嘆願書がつき返されたり、役人の厳しい弾圧などで
御触れを認めさせられた村も出たりして、部落民達の訴えはなかなか
届きませんでした。

そこで、有志22村(28村という説も)がこの一揆を起こす事になったのです。

 そして1856年6月14日、千人以上の人たちが(中には死装束の者もいた)
非武装・非暴力で岡山藩の筆頭家老のもとへと押しかけました。
粘りに粘って翌15日、このお触れを撤回する嘆願書を家老に受け取らせる事に
成功し、とうとうこのお触れは無効となりました。

 しかし、この一揆の主導者たちには厳しい取調べが行われ、翌年12人が入牢し
1859年にこの者たちの釈放嘆願書が提出されるまで6人が獄死しました。
中には二十歳の若者もいたそうです。
神下村(現・岡山市)には、獄死した者や主導者達には石碑が建てられ
現在も大切に祭られています。

 この一揆は、儒学などの高い教養があったという神下村の豊五郎著
『禁服訟歎難訴記』に記録され、今に語り継がれています。

※被差別部落
 かつて、ひにん・えた(「非人」「穢多」などと当て字をふられた。)という
不当に差別された身分の者たちが住み、「エタ村」などと呼ばれた部落・集落。
この問題については諸説あるので詳しくはこちら(Wikipedia)を読んでください。

参考サイト
・ひろげよう人権
・岡山県人教「渋染一揆に学ぶ」
・岡山市市民局 人権推進課 「渋染一揆資料館」
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