岡山・津山特集
朝日訴訟
・岡山県津山市
[ 概要 ]
  肺結核を患い、国からの保護を受けていた朝日 茂(あさひ  しげる)氏が
その保護内容が生活保護法に定められた「最低限度の生活」に満たないと
昭和32年に厚生省へ不服を申し立てた行政裁判。

―朝日氏の簡単な生い立ち
大正2年、津山市京町に生まれる。
津山商業高等学校卒業後、中央大学夜間部へ通いながら日満倉庫(株)で勤務。
大学を卒業し、中国の大連で日満倉庫駐在員事務所に赴任中、昭和12年に発病。
その後回復するも、3年後に再発。
大分県や津山市で療養するが、治療に専念するため昭和16年に同社を退社。
翌年、国立岡山療養所へと入所する。―

  朝日氏には身寄りがなく、生活保護法に基づき、医療費と、日用品費として
月額600円を国から受け取っていました。月に、たったの600円!
月600円の支給というのは、大体、肌着が2年に1着、パンツが1年に1枚、
ちり紙1日1枚半という生活だったそうで、しかも、そば1杯17円の時代に、
患者の食事代は1日で18円。
とても劣悪な環境だったことが分かります。

  朝日氏は保護内容の改善を訴えていましたが、入所から14年後の
昭和31年、津山市社会福祉事務所が、身寄りがないと思われていた朝日氏に
実兄がいることを突き止めました。お兄さんは長い間消息不明でしたが、満州から
帰国したのち、宮崎県で暮らしていたのです。
福祉事務所は兄に対し、月1500円の仕送りをするよう命じ、それから朝日氏は
600円の給付に加え、毎月1500円の仕送りを受け取る事ができるように
なりました。これにて一件落着かと思いきや、福祉事務所はなんと今までの
月600円の給付を停止。さらにあろうことか
「今まで600円でやってこれたんだから、1500円のうち900円は余るでしょ。」
と、残りの900円は医療費として徴収するよう決定したのです。
朝日氏の手元に残るのは600円。
コレでは元の木阿弥、全く改善されてません。

当然のことながら、朝日氏は猛抗議。
兄の送金から、日用品費として最低でも1000円は受け取るべきだと、
三木行治岡山県知事(当時)に不服申し立てを行うも、却下。
さらに小林英三厚生大臣(当時)へ再審査請求したもののこれも却下。

ついに昭和32年、朝日氏は厚生大臣を被告とし、現在の生活保護給付金
600円では、憲法25条と生活保護法に定める「健康で文化的な最低限度の
生活を営む」ことは到底出来ないとして、行政裁判をおこしたのです。
(このときの厚生大臣は堀木鎌三。)

・憲法第二十五条
第一項  すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
第二項  国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び
           増進に努めなければならない。
同年、朝日氏行政訴訟対策委員会が結成され、新聞にも報じられました。

  昭和35年10月19日、東京地方裁判所(浅沼武裁判長)の第一審では
「日用品費月額600円は違法であり、支給の停止と医療費の没収を取り消す」
という判決が下され、原告(朝日氏)の全面勝訴となりました。

  しかし昭和38年11月4日、第二審の東京高等裁判所(小沢文雄裁判長)で
「確かに600円という支給額は低いが、足りないのは70円だけで、憲法25条に
違反しているとまではいえない。」とされ、朝日氏の逆転敗訴となってしまいました。
また厚生省側の意見の中には、「国民の中には未だワラで用を足すものも多いのに
ちり紙が買えるくらいの支給を貰ってるんだから十分じゃないか。」というものも
あったそうです。

もちろん朝日氏はこれを不服とし、上告しましたが、昭和39年2月14日、
朝日氏は上告審の半ばにして、闘病の末、この世を去りました。

その後、朝日氏の養子夫妻がこの訴訟を継承し、最高裁判所へと上申。
しかし昭和42年5月24日、最高裁(入江俊郎裁判長)は
上告人死亡のため、訴訟は終了
という判決を下し、裁判は悲しい結末で幕を閉じました。
ただ「念のため」と、最高裁は次のような「意見」を述べました。
(いわゆる「念のため判決」。)

・「憲法25条1項はすべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営み
  得るように国政を運営すべきことを国の責務として宣言したにとどまり、
  直接個々の国民に具体的権利を賦与したものではない」
・「何が健康で文化的な最低限度の生活であるかの認定判断は、厚生大臣の
  合目的的な裁量に委されており、その判断は、当不当の問題として政府の
  政治責任が問われることはあつても、直ちに違法の問題を生ずることはない。

つまり

「すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活」を送れるように、国は努力する
よう宣言しただけで、「その為にこんな援助がもらえますよ」とか具体的な権利を
与えたものではないし、どういう保障をすれば「最低限度の生活」を送れるかは
厚生大臣が自由に決める事で、その保障内容の良し悪しが違法になることはない。

という事です。

この裁判は「人間裁判」とも呼ばれ、「生存権」を根本から問う
大きなきっかけとなりました。
この出来事の後、保護費の大幅引き上げ、老人医療費の無料化など
社会保障の見直しへ大きく前進しました。

「血痰と動悸はげしき日日なれど人間裁判に生命(いのち)をかくる」

朝日氏の、まさに命をかけた闘いは、のちの社会保障をめぐる問題に
大きな光を与えました。

※参考
・「朝日訴訟」の正式名称は
  「生活保護法による保護に関する不服の申立に対する栽決取消請求事件」。
・昭和31年度の国家公務員初任給は8700円。
・朝日氏は、津山市西寺町にある本行寺に埋葬されています。
・早島町に、朝日訴訟の記念碑が建立されています。

参考サイト
・東京ソーシャル・ワーク「人間裁判―朝日訴訟をごぞんじですか?」

朝日訴訟に対してこういう批判的な意見もあるようです。
朝日訴訟の「名前の由来も詳細も覚えておりません」っていう時点で
もうアウトですけど。

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